母の日にお母さんに感謝できなくたっていい-「家族の一体感」に隠された差別と暴力性
2017年の5月、『母の日にお母さんに感謝できなくたっていい』という記事を書いた。
子どもの頃から、母の日はプレッシャーだった。
毎年、母の日が近くなると、暮らしの中に「いつも惜しみない愛情を注いでくれるお母さんに感謝を」などの広告があふれる。2026年の母の日である今日も、LINEを開いたら、母親が子どもを抱きしめて暖かく包み込むようなアイコンが大きく表示されている。
それを見て私は「はあ…。今日は母の日か。複雑な思いをしている子どもたちがたくさんいるだろうな」と重い気持ちになる。
(母の日に)「お母さん、喜んでくれるかな?」と、ただそれだけの純粋な気持ちで花を買えたことがあったのかは、私にもわからない。
親を捨てることができたらどんなに楽だろうと思いつつ、支配や暴力のある環境で育つほど、親をあきらめることができない。子どもを虐待し、振り回す親に苦しめられている中高生に、「親をあきらめたほうがいい」と日々伝えている私も、そうなのだ。
子どもを支配したり、子どもに依存して孤独を埋めて生き延びようとする親は、なかなか変わらない。そんな状態の親を子どもだけで支えることはできないし、変えることもできない。親を変えようと試みて、感謝を伝えたり手伝いをする回数を増やすなど機嫌をとるようなことをしたり、機嫌を損ねないための行動をとったりすると、ひと時の間、理不尽なことで怒鳴られなくなったり優しくなったりするので「変わってくれた」と勘違いすることもある。が、それはひと時で終わる。
しかし、そういうことが繰り返されるたびに、「変わってくれるかもしれない」と期待したり、「自分がいい子にしていれば親は優しい」と勘違いしたりして、親が虐待するのは「自分が悪いからなのだ」と原因を自分に求めてしまう。子どもにとって、親を悪く言うよりも、自分のせいにしたほうが気持ちが楽だから。
2017年にこの記事を書いてから、私は母の日に贈り物を渡さずにいられるようになった。しかし、それ以降も、境界線を持たずに侵害してくる母との関係に苦しめられ、その後数年してからようやく関係を断ち切ることができた。
記事を公開してから9年経つが、今も反響は大きく、女性たちから共感の声が寄せられ、「書いてくれてありがとう」と言われる。それだけたくさんの人が母との関係や、感謝の強要に苦しんできたのだろう。
「いつも惜しみない愛情を注いでくれるお母さん」ばかりでないことを知ってほしい。
そんな余裕をなくしたお母さんたちが、たくさんいることを知ってほしい。
お母さんたちも孤立していることを、子どもたちは感じている。
「ママを一人にしないで」と言われて、自分がそばにいてあげなければと思ってそこから逃れられない子どももいる。
だから、そんな子どもたちのお母さんのことを支えてくれる人が増えてほしい。
母の日にお母さんに感謝できなくたっていい。
そう考える人が増えたら、痛みを抱える人たちの心は少し軽くなるだろう。
そうした声を大きくするために、ぜひ今読んでくれているこのレターをシェアしてほしい。苦しんでいる人に届けたいから。こういう記事をシェアするような人にだったら、自分の苦しみを理解してもらえるかもしれないと身近な人が思えるかもしれないから。
この記事は、2025年に出版した『10代から考える性差別・性暴力バカなフリして生きるのやめた』に収録されている。
この本では、少女たちをモノ化し、性的な商品として売り出す社会がどのように作られているのか。それを支える構造や、根本にある差別と暴力を問い、自分事として考えていくための入門書として、10年間の連載をまとめた。他にも親への感謝の強要プログラム、二分の一成人式などの問題も書いている。
第1章 いま足元にある性売買
少女は気軽に「売春」に足を踏み入れているのか?
児童買春やJKビジネスは「人身取引」
「私たちは『買われた』展」への想い
10代の少女が「性行為やむを得ぬ」と回答?
援助交際を「性犯罪の抑止力」と考える高校生
第2章 困難な状況を生き抜いてきたことの意味
「やってみたい!」と言える環境、機会の格差
首相から子どもたちへの「応援」を批判する理由
子ども不在の「親子断絶防止法」と離婚後「共同親権」
母の日にお母さんに感謝できなくたっていい
「死にたい」という気持ちを責めないで
もしも性暴力に遭遇したらどうする?
第3章 自分のなかの差別意識や加害者性に向き合って
生活保護は「恩恵」ではなく「権利」
母親に何でも話せる子は性被害にあわない?
女性優位社会が本気で信じられている
誘拐事件で「なぜついていった?」と責める前に
第4章 少女が搾取や暴力に行きつかなくてよい社会へ
血縁だけが家族じゃない
「助けたい」という気持ちが上から目線になる
日本に「女性支援」の根拠法ができた
今日は私が最近辛かったことについても書きたい。
実は、5月3日の憲法集会で「母と同じ会社だった」という人から声をかけられた。
「父と同じ会社だった」という人からも声をかけられた。
ただ「同じ会社だったんですよ~」と明るく言われた。どういう意味だったのか分からない。
私は親との関係について公表しているので、戸惑った。「そうなんですねー、会社でもご迷惑をおかけしていなかったですか」と、なんで私が親の振る舞いを気にしないといけないのか、おかしいよな、と思いつつ、とっさに返したら、「私たちにはそういうそぶりはまったく見せなかったから、驚いたの」と言われた。「そうですか、それならよかったです」と返した。なにが「よかったです」だ、と自分で言いながら思った。
「そうなんだ。そうだろうね。すごいわかる感じ。虐待の加害者に外面が良い人は多いし、相手を選んでやるからね。」と内心思っていた。そもそも、私が公表していることは、私の経験していることのごく一部でしかないし、もっとひどいこと、すごいこと、言えないでいること、私でもまだたくさんあるんだよ。大人になってからも、活動始めてからも何度もあるんだよ。言いたくても言えないことがあるのは、当たり前だよね。それは被害を語れない社会があるからで、よくないことだと思う。
こういう会話をするだけでも、心にズキズキくる。相手は無自覚な暴力性を振る舞いてくる。こちからから言いたいこともないので、愛想笑いだけしていると、「会社の人に見せたいから写真を撮らせてほしい」と言われた。
とっさのことで、女性人権センター建設プロジェクトのブースの前だったし、他の方との写真撮影には気持ちよく応じていたし、断るわけにもいかず、「いいですよ」と言った。
一緒に撮るのかなと思ったら、私一人だけの写真を撮られた。すごい嫌だった。
「娘さんに会ったよ!」と見世物にしたいだけなんじゃないかと思った。たぶんそうだ。虐待の中にいる少女たちを支える活動を、自分も当事者の一人として応援しようという様子もなかったし、すごく嫌な気分。でもニコニコするしかなかった。

女性人権センター建設プロジェクトのブース!たくさんの方が来てくれて、声をかけてくれて連帯もいっぱい感じられました。ありがとう。
『バカなフリして生きるのやめた』は、少女や女性を力のない存在として扱う権力に抗う宣言だ。
そんな連載を10年以上やってきた私も、まだニコニコしてしまう。悔しかった。思い出しながらこれを書いている今も、すごい疲れてくる。嫌な気持ち。嫌だった。
わざわざ両親の知り合いだと言いに来たのはなぜなのか。怖いと感じる。
それはなぜか、私への尊重がないからだ。
虐待の被害者に「加害者の友達です」と言いに来ることの暴力性が、わからないようだ。
きっと、加害と被害の実態や、非対称な関係性、無自覚な暴力性について考えたこともなく、私を有名人のように思って「親と知り合いです」と言いたかっただけなんだろうけど、それが問題なんだ。
なぜ、それが自然とできてしまうのか。
多分、私が知人の、元同僚の「子ども」だからだろう。
「子ども」を一人の人格のある人として見ていないからだ。そういうのすぐに感じるセンサー(キモいセンサー)がすごい発達してるからすぐにわかってしまうんだよね。その時、私はどんな顔で写真に写っていたかな。頑張って笑顔を作ろうと口角を上げたと思う。
その人の子どもだから、なんなのか。親と知り合いだから、なんなのか。
一人ひとりを別の人間として尊重し、関係がつくれるような社会にしたい。
こういう暴力性を振りかざす人に、傷つけられてきた人はたくさんいるはずだ。
これ以上子どもたちが、同じ思いをしなくていいように、自分の暴力性に気づく人が増えてほしい。
Colaboとつながる少女たちのほとんどは、親と関係を断っているし、そこには大きな葛藤がある。一時、良い距離感で付き合えるようになったかと思うと、やはり相手は変わっておらず、こちらが拒絶しなければならない状況になるということで傷つきを繰り返している人もすごく多い。そういう少女たちがつながり、自分たちで新たな関係を築き、15年間積み重ねてきた活動がColabo。そのブースの前で、これは、やっぱりおかしいよね。
血縁だけが家族じゃない。家族とは「生きていくためのチーム」という女の子のメッセージも、『バカなフリして生きるのやめた』に書いています。

そもそも、家族に縛られる必要はない。「家族」という制度こそ、女性を縛り付けてきたということを『Colabo攻撃-暴走するネット社会とミソジニー』(地平社)で田中優子さんも書いています。
「いわゆる支援者」は何を支援したか? 「家に戻す」支援、「ルールを守らせる」支援である。それでは支配の繰り返しである。必要なのは支援ではなく、伴走なのだ。
実際に理事になってColaboに出入りするようになると、すぐにそのありようがわかってきた。バスカフェや事務所や展覧会や合宿で一緒に動いている人たちの中には、ボランティアも、職員も、当事者もいるが、区別がつかない。Colaboを頼り、出産した女性が、子どもを連れてColaboの合宿に来る様子が報告されたことがある。子育てがうまくいっているとは到底思えないその状況を、仁藤さんはそのまま報告する。子どもは乱暴で騒がしい。子どもを預かることもあるが、苦労が多そうだ。歯磨きができないことや病気がちであることは心配するが、子どもを鋳型にはめろとは言わない。むしろ、口うるさくして離れられてしまうより、Colaboとつながりつづけることのほうが安全だからだ。当事者だけでなくその連れ合いや子ども達まで含めた「関わり合い」を作っている。まさにColaboは、人間関係を主要な軸にして活動しているのだ。
私はそれを「家族のようだ」とは言わない。家族は、子どもの安全を中心にしているとは限らない。人間が互いに尊重し合うことの根底に必要なのは、世界に広がっている女性差別構造を認識していることであり、権力とは何かを知っていることであり、その厳しい状況の中で自己決定という人権の中心を守ることであり、そのために、人権を無視する者たちと闘うことなのである。必要なつながりとは、家族としてではなく、人間として互いに理解し合い、相互理解が無理な場合には一方的にでも良いから、共にいることを約束し、伴走者になることだ。
政治家や右翼活動家が「家族の一体感」という時、そこには人間がいない。ぼんやりとした「家族」という想像体や「国体」という幻が、頭にポカリとマンガのように浮かんでいるだけだ。そこで救われる人間は、誰一人としていない。Colaboが伴走している若年女性ほど、そのことを知っている人たちはいないだろう。彼らは家族幻想と、そこに隠されている暴力や差別という現実の、被害者だからだ。

5月5日の子どもの日は、みんなでピクニック。

いつもお出かけの朝は、Colaboのシェルターでドタバタしながら子どもたちを起こして、お弁当をつくって出かけるんだけど、今回、知人がキンパとチャプチェを20人分作ってくれて、すごくおいしかったし、助かった!

お出かけすると、小さい子どもから、10代、20代、30代、40代、そして50代以上と多様な年齢の人たちが、すごく親しくしていて、しかもほぼ女性で「何の集団?仲が良すぎるので、ご家族…?ではないですよね。」などとよく言われる。
愛想笑いや、わかっていないふりをして、考えることしない言い訳に「ニコニコしなくていい、ぶすっとしてていい」と、いつも女の子たちに伝えているけど、自分にも何度でも言わなくっちゃ。
そして、母の日に親に感謝できなくたって、したくなくたって、堂々と胸を張って生きよう。
対等な、共にある関係を、一緒につくっていきたい。

きっと共感コメントに励まされる人がいると思うから、もしよかったらぜひ、この記事にコメントしてください。
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